東京高等裁判所 昭和61年(行ケ)16号 判決 1988年6月30日
原告
シクバ ホールデイング・エス・エイ
被告
特許庁長官
主文
原告の請求を棄却する。
訴訟費用は、原告の負担とする。
この判決に対する上告のための附加期間を90日と定める。
事実
第一当事者の求めた裁判
原告訴訟代理人は、「特許庁が、昭和60年8月14日、同庁昭和58年審判第11286号事件についてした審決を取り消す。訴訟費用は、被告の負担とする。」との判決を求め、被告指定代理人は、主文第1項及び第2項同旨の判決を求めた。
第二請求の原因
原告訴訟代理人は、本訴請求の原因として、次のとおり述べた。
一 特許庁における手続の経緯
原告は、1978年(昭和53年)1月25日(以下「優先日」という。)、スイス国においてした特許出願に基づく優先権を主張して、昭和53年6月6日、名称を「湿式オフセツト印刷による化学的複写セツトの受容表面用減感インク」(昭和56年8月3日付手続補正書により、「湿式オフセツト印刷による化学的複写セツトの受容表面用減感インク及び減感方法」と補正)とする発明(以下「本願発明」という。)について特許出願(昭和53年特許願第67343号)をし、昭和56年8月3日付及び昭和57年9月30日付手続補正書により明細書を補正したが、昭和58年1月19日拒絶査定を受けたので、同年5月26日これを不服として審判を請求(昭和58年審判第11286号事件)するとともに、同日付手続補正書により明細書の補正をしたが、昭和60年8月14日、「本件審判の請求は、成り立たない。」旨の審決(以下「本件審決」という。)があり、その謄本は、同年9月25日原告に送達された。(出訴期間として90日附加)
二 本願発明の要旨
(1) 重ねられた少くとも2葉のうち、その対向する面の一方は求電子受容体塗膜を有し他方は該求電子受容体塗膜と呈色反応をする求核塗膜を有する化学的複写セツトの該受容体表面上に湿式オフセツトによつて印刷するための減感インクであつて、該減感インクが、オフセツト印刷機のインク盛りローラから湿式印像版の撥水域へインクを連続的に転写させ、同時に該複写セツトの受容体表面の対応域を中和する、アルコキシル化の程度が、HLBスケールで2と9の値の間でインクに親水性・親油性のバランスを与える、アルコキシル化された求核化合物を含むことを特徴とする減感インク。(以下「本願第1発明」という。)
(2) 重ねられた少くとも2葉のうち、その対向する面の一方は求電子受容体塗膜を有し、他方は該求電子受容体塗膜と呈色反応をする求核塗膜を有する化学的複写セツトの該受容体表面を減感する方法であつて、該受容体表面上に、湿式オフセツトにより、アルコキシル化の程度が、HLBスケールで2と9の値の間でインクに親水性・親油性のバランスを与える、アルコキシル化された求核化合物を含むインクの薄膜を印刷し、それによりオフセツト印刷機のインク盛りローラーから湿式印像版の撥水域へインクを連続的に転写させ、同時に該複写セツトの受容体表面の対応域を減感し、減感された複写セツト上に筆記またはタイプした際に該対応域が発色することを防止することを特徴とするもの。(以下「本願第2発明」という。)
三 本件審決理由の要点
本願第1発明の要旨は、前項(1)記載のとおり(明細書の特許請求の範囲(1)の記載に同じ。)と認められるところ、原審における拒絶の理由に引用された特公昭47-38201号特許公報(以下「第1引用例」という。)、特開昭52-8312号公開特許公報(以下「第2引用例」という。)、特開昭49-72009号公開特許公報(以下「第3引用例」という。)及び特開昭52-72610号公開特許公報(以下「第4引用例」という。)によれば、第1引用例にはポリオキシエチレンアルキルエーテルが、第2引用例には不飽和カルボン酸にアミンの付加した化合物であつて、メトキシル基をもつものが、第3引用例にはアミンにグリシジルエーテルを付加させた化合物であつて、プトキシル基をもつものが、そして、第4引用例には付加連鎖末端にアルコキシル基をもつ化合物がそれぞれ感圧複写紙用の求核性減感インキ剤として用いられる旨記載されている。更に、第3引用例には、そこに挙げられた減感インキ剤は疎水性が大で油性ビヒクルとよく相溶してオフセツト印刷用のインキ化が可能である旨、第4引用例には、一般に減感インキ剤の親水性が増加するとインキ化の際に油性ビヒクルとの相溶性が低下してオフセツト印刷に適さなくなるところ、インキ剤をエーテル化してアルコキシル基を形成することにより疎水性が上がり油性ビヒクルとの相溶性がよくなり、オフセツト印刷に適したインキ化が得られる旨の各記載のあることが認められ、しかも、これらオフセツト印刷とはごく普通の湿式オフセツト印刷を指すものと解される。したがつて、アルコキシル化された求核化合物を感圧複写紙用の減感インキ剤として用いることとそれは疎水性が高いので湿式オフセツト印刷に適した油性インキとすることができることは、いずれも本願発明の特許出願前既に知られたことであるということができる。ただ、本願第1発明においては、インキの親水性と親油性のバランスをHLB2と9の間に調節するものであるが、このようなHLBの値は湿式オフセツト印刷用インキとして普通のものであり、適宜決定し得るものにすぎない。
そうすると、本願第1発明は、第1引用例ないし第4引用例に記載されたところに基づいて当業者が容易に発明をすることができるものというに十分なので、特許法第29条第2項の規定に該当し、特許を受けることができないものであり、それゆえ、本願発明の明細書の特許請求の範囲(2)記載の発明について検討するまでもなく、本願発明の特許出願は拒絶を免れない。
四 本件審決を取り消すべき事由
第1引用例ないし第4引用例に本件審決認定のとおりの事項が記載されていることは認めるが、本件審決は、第3引用例及び第4引用例の記載から、第3引用例及び第4引用例にいう「オフセツト印刷」とは湿式オフセツト印刷を指すものであり、アルコキシル化された求核化合物は疎水性が高いので湿式オフセツト印刷に適した油性インキとすることができることは本願発明の特許出願前既に知られていたことである旨誤認し、かつ、HLB2ないし9という値は湿式オフセツト印刷用インキとして普通のものであり、適宜決定し得るものにすぎないと誤認した結果、本願第1発明は第1引用列ないし第4引用例に記載されたところに基づいて当業者が容易に発明をすることができたものであるとの誤つた結論を導いたものであり、また、本願第2発明についての判断を遺脱したものであるから、違法として取り消されるべきである。すなわち、
1 本願第1発明の進歩性についての認定判断の誤りについて
(一) 本願第1発明は感圧複写紙に用いる減感インキについての発明であつて、感圧複写紙は、少なくとも2葉の用紙からなり、その第1葉の裏面に電子供与体(求核体)としての無色のロイコ染料のマイクロカプセルを塗布し、該塗布面と接する第2葉の表面に電子受容体(求電子体)としての吸着呈色剤を塗布し、第1葉と第2葉とを重ね合わせて第1葉の表面からボールペン、タイプライター等で加圧すると、前記マイクロカプセルが破壊されてロイコ染料が流出し、第2葉表面の呈色剤と電子供受反応を起こして前記無色のロイコ染料が発色するものであるが、減感剤とは、かかる感圧複写紙の加圧によつて発色することが望ましくない部分に、前記ロイコ染料と呈色剤との電子供受反応が起こらないようにするためのもので、減感剤としての求核物質をあらかじめ第2葉の電子受容体の上に塗布し、即時電子供受反応を起こさせることにより、ロイコ染料とさらに電子供受反応を起こすことを妨げるものである。ところで、本願第1発明に係る減感インキは、インキに親水性・親油性のバランスを与えるアルコキシル化された求核化合物を含むもので、本願第1発明の特徴は、アルコキシル化された求核化合物のアルコキシル化の程度を調節することにより、減感インキにHLB値2ないし9という親水性と疎水性のバランスを与え、湿式オフセツトによる印刷を可能にした点、換言すれば、求核化合物のアルコキシル化の程度を調節することにより、減感作用に必要な求核性を維持しつつ湿式オフセツト印刷可能なHLB値を与えるようにした点にあるが、第1引用例ないし第4引用例には、ドライオフセツトとは原理的に全く異なる湿式オフセツト特有の技術についての記載や従来不可能であつた湿式オフセツトによる印刷を可能にするという本願第1発明の技術的目的の開示又は示唆が一切ないばかりか、求核化合物のアルコキシル化の程度が湿式オフセツト印刷のために必要である旨の記載ないし示唆もない。これを詳述するに、一般に、印刷には、版から直接インキを被印刷体に移す直接印刷方法とインキを一度ブランケツトに移してから被印刷体に再び移転する間接印刷方法(オフセツト印刷方法)とがあり、間接印刷方法(オフセツト印刷方法)には、凸版によるもの(ドライオフセツト印刷)と凹版によるもの(グラビアオフセツト印刷)と平版によるもの(湿式オフセツト印刷)とがあるが、ドライオフセツト印刷が凸版を版面とする湿し水を用いないオフセツト印刷で、その本質は凸版印刷であるのに対し、湿式オフセツト印刷は、平滑な薄板(版胴、印像版)上に親油性の画線部と親水性の非画線部とを形成し、これに油性のインキと水(湿し水)とを交互に供給し、インキと水との反発作用により画線部のみにインキを着肉して画像を形成し、この画像をいつたんブランケツト胴に移した後、その上に紙を置き裏面から圧胴で加圧して印刷するものであるが、インキと水とは常に接触するので、インキ中に水が乳化するのを避けられず、したがつて、インキの疎水性が強すぎると、乳化した湿し水が直ちにインキの外に押し出され、その部分だけがインキの移転不良(スノーフレーキー)を生じ、また、インキの親水性が強すぎると、インキが湿し水の方へ移行し非画線部の汚れを生じてしまうことから、湿式オフセツト印刷用インキは、適当な親水性と疎水性のバランスを有することが必要であつて、ドライオフセツト印刷と湿式オフセツト印刷とでは、湿し水の使用の有無という点で著しい相違がある。そして、本願発明の特許出願当時においては、湿式オフセツト印刷に適した減感インキは存在せず、減感インキは湿式オフセツトでは印刷できないということが技術常識であつたのであつて、このことは、第4引用例(甲第5号証)第2頁右上欄第20行ないし同頁左下欄第13行に、例えば、特公昭46-29546号特許公報、特公昭49-23850号特許公報及び特公昭49-23118号特許公報に記載された減感インキは、いずれもオフセツトなどの各種印刷に適したものではない旨述べられていることや甲第6号証及び第7号証記載の記述によつても明らかである。なお、特許出願昭49-13690号(昭和49年11月26日出願)の公開公報(特開昭51-63710号。甲第13号証)の第2頁左下欄第2行ないし第4行にも、「ところが従来これら平版印刷については、減感印刷は全く不可能であり、平版印刷機にて、印刷可能な減感印刷法の開発が強く要望されていた。」との記載があり、右特許出願の優先権に基づく米国特許出願第4,078,493号においても、同趣旨の記載がある。
他方、第3引用例には、「……かかる生成物は減感効果が大であり、分子量の増大に伴なつて疎水性が大となり油性ベヒクルと良く相溶してオフセツト印刷用のインキ化が可能である。」(甲第4号証第2頁左上欄第20行ないし同頁右上欄第3行)との記載が、また、第4引用例には、「本発明の減感剤は減感効果が大きく、油性ビヒクルとの相溶性も良くしたがつて各種の印刷に適したインキ化が可能であり」(甲第5号証第3頁左上欄第18行ないし第20行)との記載があるものの、第3引用例には、分子全体の数箇所の脂肪族部分にプトキシル基が付加した置換のジアミン化合物が示されており、これらのアミン化合物は水溶性であつて、湿式オフセツト印刷には使用不能であり、また、第4引用例にはエチレンオキサイド又はプロピレンオキサイドとアンモニアやアミンのような窒素を含む化合物との反応生成物である減感剤が示されており、分子のヒドロキシ基のある部分は、例えば、アルキレンオキサイドのようなオキシレン誘導体により更にエーテル化又はエステル化されており、これらの化合物も水溶性であつて、湿式オフセツト印刷には使用不能である。また、減感インキの印刷可能な印刷方式として、第3引用例には、「このような反応生成物を含有する減感剤を電子受容面に適用するには凸版、グラビア、オフセツト、フレキソ等の印刷用インキとしたり、適当な溶媒に溶解してスプレーしたり、又パラフイン、木ロウ、白色顔料と混練して固体状で使用するなど各種の形態を採ることができる」(甲第4号証第2頁左下欄第6行ないし第11行)との記載が、第4引用例には、「かかる反応生成物を主成分とする減感剤を感圧複写紙の電子受容面に適用するには、印刷用インキ(減感インキと称する)として印刷したり、……その場合、印刷方式としては活版、グラビア、フレキソ、オフセツト、孔版などの各種印刷方式が好ましく適用される。」(甲第5号証第6頁右上欄第20行ないし左下欄第13行)と記載されているが、いずれも極めて概括的な記載で具体性を欠き、オフセツト印刷を他の印刷方式や塗布方法と並列して記載して何ら区別しないで論じており、しかも、これらの他の印刷方式は、いずれも湿し水を使用せず、したがつて、インキと水とのバランスについて何ら特別の考慮を要しないものであるから、同じく列挙された「オフセツト」についてだけ別段の考慮がなされているとは到底考えられず、こうした事実に、前述のとおり、オフセツト印刷という用語は、基本的な技術的思想の異なる方式であるドライオフセツト、湿式オフセツト、グラビアオフセツトを包括する用語であつて、そのうちのいずれを意味するのか必ずしも明確ではないことや前述した本願発明の特許出願時の技術水準を考慮すれば、第3引用例及び第4引用例記載の「オフセツト印刷」が湿式オフセツト印刷を指すものとは考えられない。しかるに、本件審決は、第3引用例及び第4引用例記載の「オフセツト印刷」とは、ごく普通の湿式オフセツト印刷を指すものと解される旨認定判断したものであつて、右認定判断は誤りである。
また、本件審決は、第3引用例及び第4引用例の記載に基づいて、アルコキシル化された求核化合物は疎水性が高いので湿式オフセツト印刷に適した油性インキとすることができることは、本願発明の特許出願前既に知られたことである旨認定判断するが、湿式オフセツト印刷用インキは、単に疎水性であつて油性ビヒクルとの相溶性がよいことだけをもつて足りるのではなく、適当な親水性と疎水性のバランスを有することが必須の要件であつて、すべての湿式オフセツト印刷用インキは、ドライオフセツト印刷により印刷可能であるが、すべてのドライオフセツト印刷用インキが湿式オフセツト印刷により印刷できるものでは決してなく、しかも、第3引用例及び第4引用例には、、かかるアルコキシル化の程度を調節することが湿式オフセツト印刷のために必要である旨の記載ないし示唆はないのであるから、本件審決の前記認定判断は誤りである。
(二) 本件審決は、HLB2と9の間の値は湿式オフセツト印刷用インキとして普通のものであり、適宜決定し得るものにすぎない旨認定判断するが、前述のとおり、第3引用例及び第4引用例には、かかるアルコキシル化の程度を調節することが湿式オフセツト印刷のために必要である旨の記載ないし示唆はないのであるから、右認定判断が誤りであることは明らかである。この点について、被告は、本件審決の右認定判断に誤りはないとして、第3引用例及び第4引用例の記載事項を引用し、乙第1号証ないし第4号証を挙示するが、第3引用例及び第4引用例並びに乙第1号証ないし第3号証には、「HLB」については何らの記載も示唆もなく、また、乙第4号証にはHLBについての記載はあるが、それと湿式オフセツト印刷との関係については何らの記載も示唆もないのであるから、被告の右主張は失当である。また、被告は、HLB2ないし9という範囲の限定は、相当広範な幅を有して臨界的意義が明確でない旨主張するが、このHLBの値は本願第1発明の減感インキを湿式オフセツトにより良好に印刷することが可能な値の範囲であり、その臨界的意義は至極明確である。第3引用例及び第4引用例にはアルコキシル化合物が記載されているが、求核性で、かつ、右HLB値の範囲内にあるものはなく、アルコキシル化の程度により右HLB値の範囲内に調整することは決して容易ではない。本願第1発明の発明者は長期間にわたる研究と度重なる実験の結果、右HLB値を得ることに成功したものであつて、被告の右主張は、失当である。なお、被告は、湿式オフセツト印刷用インキにおいて、HLB2ないし9の値を使用することは当業者にとつて容易であることを界面活性剤一般の理論によつて説明しているが、被告の主張は極めて抽象的であり、多数の要件が複雑に関連している湿式オフセツト印刷用インキについての議論としては不十分であるといわざるを得ない。特に、本願第1発明のインキにおいては、「湿式オフセツト印刷適性」、「減感適性」、「求核性」及び「アルコキシル化の程度」という各要件の錯綜下において、HLBの概念の応用に想到し、多数の実験を繰り返した結果、アルコキシル化の程度を調節することによつて、HLB2から9に限定するに至つたものであり、本願発明の発明者の苦心したところである。したがつて、各引用例程度の不十分な記述と界面活性剤についての抽象一般理論から、本願発明が容易になし得たと結論することは無理である。このことは、本願発明が西独、米国を含む世界各地において特許されている事実によつても裏付けられる。
(三) 第3引用例及び第4引用例における「オフセツト印刷」が「湿式オフセツト印刷」を指すものとしても、本願発明の発明者は、減感インキの湿式オフセツトによる印刷が不可能であるという問題を解決するために、多くの化合物につき実験を重ねた結果、アルコキシル化の程度を極めて高くすることにより、減感インキのHLB値を所定の範囲内とすることができ、したがつて、湿式オフセツト印刷が可能であるとの結論に達し本願発明に至つたもので、本願第1発明の技術的要件である「アルコキシル化された求核化合物のアルコキシル化の程度を調節することにより、減感インキにHLBスケールで2と9の値の間で親水性・親油性のバランスを与える」という要件は、いずれの引用例にも記載も示唆もされておらず、本件審決の、本願第1発明は第1引用例ないし第4引用例の記載事項に基づいて当業者が容易に想到し得るものであるとした本件審決の認定判断は誤りである。
2 判断遺脱について
本願発明の特許出願は、特許法第38条ただし書の規定による併合出願であり、本願第1発明と本願第2発明との2つの発明を包含するものであるところ、本件審決は、本願第2発明について、「残る特許請求の範囲第二項に係る発明について検討するまでもなく」としているだけで、何らの判断をも加えていないのであるから、本件審決に判断遺脱の違法があることは明らかである。
第三被告の答弁
被告指定代理人は、請求の原因に対する答弁として、次のとおり述べた。
一 請求の原因1ないし3の事実は、認める。
二 同4の主張は、争う。本件審決の認定判断は正当であつて、原告主張のような違法の点はない。
1 同四1(一)の主張について
オフセツト印刷とは、原理的には、版面から一度インキ画像をゴム胴(ゴムブランケツト)面に転写し、そこから紙に印刷する間接印刷方式をいうが、その原理は、一般には、湿し水の使用を前提とする平版印刷に利用されているために、オフセツト印刷といえば、平版により湿し水を使用するオフセツト印刷、すなわち湿式オフセツト平版印刷(湿式オフセツト印刷とも通称される。)を指称するのが印刷業界の現状である(乙第1号証の2第53頁ないし第55頁並びに乙第2号証の2第90頁ないし第95頁及び第308頁ないし第312頁)。もつとも、湿し水を用いないオフセツト印刷の方式も存在するが、従来から実用化されているのは、平版によるものではなく、凸版や凹版製版材で印刷するオフセツト印刷であり、これは、専ら湿式オフセツト平版印刷を指称する一般のオフセツトと用語を区別して表現し、特に版式を付記して凸版オフセツト印刷あるいはドライオフセツト印刷、グラビアオフセツト印刷と呼ぶのが普通である(乙第一号証の2第53頁ないし第54頁、第112頁及び第273頁)。また、一般のオフセツト印刷(湿式オフセツト平版印刷を指す。)、更には平版印刷は、版面に明確な高低がなく、一平面上に画線部と非画線部が形成されている平版を用い、水と脂肪とが互いに反発する性質を利用し、非画線部は化学処理によつて親水性とし、画線部は写真焼付け等により親油性とし、版面に水(湿し水)とインキを交互に与えて印刷する技術であるから、そこで用いるオフセツトインキ、平版インキには、当然のことながら、特別の性質として、湿し水とあまり乳化せず、版に忠実に移転することが要求される(乙第1号証の2第354頁)。これをやや詳しく説明すると、湿し水とあまり乳化しやすいインキであると、インキが湿し水の方へ移行する結果、ブリード(泣き出し)という現象を起こして版の非画線部や印刷紙の白地を汚すことになるし、親油性があまり高いインキであると、吸収された湿し水が分離してインキ表面に押し出され、その部分だけインキの移転が不良となるから、オフセツトインキ、平版インキにあつては、インキと水との化学的なバランスの検討が極めて重要となるのであつて、このことは、よく知られていることである(乙第2号証の2第378頁及び乙第3号証の2第21頁ないし第33頁)。ところで、界面活性剤が乳化作用においてもつている油と水に対する化学的なバランスの度合がHLB(親水性親油性バランス)であり、それは1から40までの数値で表され、数値が小さいほど親油性が高く、数値が大きいほど親水性が強いこと、油中水滴型(W/O)乳化にはHLB値3.5ないし6の界面活性剤(乳化剤)が好適であることは、殊更に指摘するまでもなく、本願発明の特許出願前の化学常識であるから(乙第4号証の2)、乙第1号証ないし第3号証の各2におけるインキの性状に関する記載は、オフセツトインキ、平版インキは親油性が強く、すなわちHLB値が小さくなければならないが、適度の親水性も帯びなければならず、それは油性インキ中に分離析出しない程度に若干水の混入した状態である油中水滴型乳化を形成し得るようなHLB値をもつことを意味しているということになる。こうした乙第1号証ないし第3号証の各2に記載の印刷及びインキに関する技術常識を当然の前提にして第三引用例及び第4引用例を読むならば、そこでいう「オフセツト印刷」あるいは「オフセツト」なる用語が、その有する普通の意味で用いられており、湿し水の使用を前提とする湿式オフセツト平版印刷、すなわち湿式オフセツト印刷を指称していることは、当業者にとつてあまりにも明白なところである。また、第3引用例における、「従来かかる減感剤としては……分子中に多くの親水基を持つためインキ化の際に親水性のベヒクルしか使用できずオフセツト印刷には不適である」(甲第4号証第1頁右欄第八行ないし第22行)との記載及び「グリシジルエーテル類を附加せしめて得られる反応生成物を含有する減感剤を提供するものであり、かかる生成物は減感効果が大であり、分子量の増大に伴なつて疎水性が大となり油性ベヒクルと良く相溶してオフセツト印刷用のインキ化が可能である」(同号証第2頁左上欄第20行ないし同頁右上欄第三行)との記載、更には、第2引用例から認められる、一般に減感剤の親水性が増加するとインキ化の際に油性ビヒクルとの相溶性が低下してオフセツトや活版などの印刷に適したインキが得られないところ、減感剤をエーテルとし、そのアルコキシル化の程度を大きくすることにより、オフセツト、活版、グラビア、フレキソ、孔版などの印刷に適したインキ化が可能である旨の記載も、特に湿し水を用いるためにインキと水とが必ず接触することになる湿式オフセツト平版印刷に注目し、その印刷方式でとりわけ重要として要請される減感剤の親油性と親水性のバランスについて説明しているものと解し得るのである。すべての湿式オフセツトインキは、ドライオフセツト印刷等に使用可能であるから、その減感インキが湿式オフセツト印刷以外の印刷方式にも適する旨の記載も当然のことで、理解に困難はない。換言すると、第3引用例及び第4引用例における「オフセツト」あるいは「オフセツト印刷」なる用語が、ドライオフセツト印刷、凸版オフセツト印刷あるいはグラビアオフセツト印刷を意味するものとするならば、「オフセツト」あるいは「オフセツト印刷」という用語の一般的な使われ方に反することになるために明細書上その旨の定義がなされていて当然であるし、また、そうだとすると、第3引用例及び第4引用例に挙げられた印刷方式の種類はすべて湿し水の使用を必要としないものということになる結果、減感剤の親油性が必ずしも大きくなくても、すなわち、かなり親水性が強くても、適当な親水性のビヒクルを選べば、それに適したインキ化と印刷は達成されるはずであり(親水性インキがドライオフセツトにより使用できることは、甲第6号証からも明らかである。)、第3引用例及び第4引用例記載の発明における、アルコキシル化により親水性を下げて親油性の大きい減感剤を提供するという技術的課題、そしてその際にアルコキシル化の程度を調節して親油性と親水性のバランスを特に考慮している理由を合理的に理解できなくなるのである。そうであるから、第3引用例及び第4引用例についての本件審決の認定判断に誤りはない。なお、原告は、その主張を裏付けるものとして、甲第6号証、第7号証及び第13号証を挙示するが、甲第6号証については、その立証趣旨が、本願発明の特許出願前の減感インキは、すべて親水性の高いものばかりであつて、湿式オフセツト平版印刷に適用可能なものはなく、湿し水を用いないオフセツト印刷によつてのみ印刷ができるという点にあるとすれば、その誤りであることは第3引用例及び第4引用例の記載に照らして明白である。また、甲第7号証については、湿式オフセツト平版印刷により印刷可能な減感インキは、1977年より前には開発されておらず、1977年になつて原告のR. ワイル博士がその開発に成功したというのは、甲第7号証のテレツクスの発信人の個人的な思い込みにすぎない。湿式オフセツト平版印刷により印刷可能な減感インキが本願発明の特許出願前わが国において開発、公表されていたことは第3引用例及び第4引用例により否定し得ないところである。更に、甲第13号証については、同号証には、原告指摘のとおり、「ところが従来これら平版印刷については、減感印刷は全く不可能であり、平版印刷機にて、印刷可能な減感印刷法の開発が強く要望されていた。」(同号証第2頁左下欄第2行ないし第4行)との記載が存するが、これは、甲第13号証における発明者が第3引用例及び第4引用例の存在をたまたま知らなかつたからであつて、そうであるからといつて、第3引用例及び第4引用例に記載、公表された湿式オフセツト平版印刷で印刷可能な減感インキについての技術が否定される筋合のものではない。
2 同四1(二)の主張について
第3引用例及び第4引用例には、減感剤を湿式オフセツト平版印刷によつて印刷するに当たり、とりわけ重要となる減感剤の親油性と親水性の性質上の関係、減感剤と油性ビヒクルとの相溶性の関係、減感剤のアルコキシル化の程度が大きくなると親油性が増大する関係が記載されているから、減感剤のアルコキシル化の程度に配慮して、HLBを2と9の間に調節するようなことは、その記載に基づき当業者が実験的に適宜決定し得る程度のことである。しかも、このHLB値2ないし9という範囲の限定は、相当広範囲な幅を有して臨界的意義が明確でないこと、乙第1号証ないし第3号証の各2に記載された、オフセツトインキ、平版インキは湿し水を用いるために親油性と親水性のバランスの検討が重要である旨の印刷技術上の常識、乙第四号証の2に記載された、油中水滴型乳化に必要な界面活性剤(乳化剤)のHLB値が3.5ないし6である旨の化学常識に照らしても、明細書中に例示された求核化合物のもつ化学構造からみて一種の乳化剤とみることのできる本願発明の減感剤についてのこうしたHLB値の限定は、当然に考慮すべき範囲のものといわざるを得ない。この点を更に詳述するに、湿式オフセツト平版印刷では湿し水を使用するから、そのインキは水や薄い酸に溶けたり、乳化するような物質を含んでいてはならないのであつて、さもないと、インキが泣き出しという現象を起こして、版の非画線部や印刷紙の白地を汚すことになる(乙第2号証の2第378頁)。これは、湿式オフセツト平版印刷インキについての技術常識である。第3引用例及び第4引用例の前記指摘箇所の記載も、右と同趣旨の問題点を湿式オフセツト平版印刷インキに含有される減感剤について指摘し、その改良を図つたものであることが明らかである。しかし、他方、湿式オフセツト平版印刷インキの含有成分が示す油性ビヒクルとの相溶性、すなわち親油性にも、それなりの限界があるのであつて、インキ成分の親油性があまり高すぎると、吸収された湿し水が分離してインキ表面に押し出され、その部分のインキの紙への移転が不良になること、湿式オフセツト平版印刷においては、インキと水との化学的なバランス、すなわち親油性と親水性のバランスの検討が重要となることもまた、本願発明の特許出願前普通に知られているところである(乙第3号証の2第21頁及び第27頁ないし第29頁並びに乙第7号証の2)。したがつて、湿式オフセツト平版印刷インキに含有される減感剤についても、その親油性があまり高すぎてはならないという要請があることは当然のことである。換言すると、油性インキ中に分離析出しない程度に若干の水の混入した状態である油中水滴型乳化を形成し得るような減感剤であることが必要となるのである。ところで、界面活性剤が乳化作用において示す油と水に対する化学的バランスの度合を表現する手段がHLB(親水性親油性バランス)であり、これが本願発明の特許出願前の化学常識であることはいうまでもないところ、本願第1発明は、まず湿式オフセツト平版印刷インキに含有される減感剤の油性ビヒクルに対する相溶性の程度、すなわち親油性と親水性の関係を規定する手段として、前記化学常識に属するHLBを採用したものであるが、その採用をもつて格別の創意を要するところとはいえないし、また、減感剤のアルコキシル化の程度を調節してHLB値2ないし9とする点をもつて格別の困難性があるということもできない。すなわち、(1)ある化合物が油性ビヒクルに対して相溶性があるということは、化学分野の専門家にとつて、その化合物が親油性、疎水性であるということと同意義であつて、それはまたHLBで表現したときその化合物のもつHLB値が小さいということと同じ意味であること(それはいずれも、単なる表現上の問題にすぎず、技術的障壁といつたものではないことは、当業者にとつてあまりにも明らかなところである。)、(2)油中水滴型(W/O型)乳化に必要な界面活性剤(乳化剤)のHLB値が3.5ないし6であるのが化学常識であるから(乙第4号証の2)、第3引用例及び第4引用例、更には本願発明の明細書の発明の詳細な説明に例示された求核化合物の化学構造からみて界面活性剤でもあり、乳化作用をもつことが明らかなこれら減感剤(第3引用例及び第4引用例に例示された化合物がアミン系の界面活性剤に属することは、当業者にとつて明らかである。本願発明の明細書の発明の詳細な説明の欄に開示された、例えばプロピレンオキサイドとエチレンオキサイドのブロツク共重合体やポリプロピレングリコール系、ポリオキシエチレンアルコール系の化合物も、周知の典型的な界面活性剤である。)を加えて、油中水滴型乳化の湿式オフセツト平版印刷インキとするうえで、この化学常識に属するHLB値3.5ないし6という範囲は当然に考慮し参考にすべきものであること、(3)減感剤のアルコキシル基の分子量が増大すると、すなわちアルコキシル化の程度が大きくなると、親油性の増大する関係(アルコキシル化の程度を調節することによつて親油性の程度を制御し得るとの関係)が第3引用例及び第4引用例に記載され本願発明の特許出願前知られていること、(4)本願発明におけるHLB値2ないし9という範囲は、相当に広範な幅を有していて、明細書の発明の詳細な説明の欄の説明をみても具体的な実験データがなく、臨界的意義が裏付けられていないこと、以上の点を併せ考えるとき、本願第1発明において、減感剤についてHLBを採用すること、そして、アルコキシル化の程度を調節してHLB値を2ないし9の間に限定することをもつて、格別の創意を要するところとはいえないし、格別の困難性があるところともいえない。
3 同四1(三)の主張について
本願第1発明は、第1引用例ないし第4引用例により、本願発明の特許出願前感圧複写紙用の減感インキ剤として知られ、かつ、アルコキシル化されているために親油性が大で油性ビヒクルとよく相溶して湿式オフセツト平版印刷に適していることも知られている求核化合物について、その親油性の程度を、界面活性剤の技術分野で化学常識となつている親水性と親油性のバランス、すなわちHLBで表現し、そのHLB値を湿式オフセツト平版印刷用インキとして当然に配慮すべき油中水滴型乳化を形成できる値に適宜調節したものにすぎない。
4 同四2の主張について
特許法第38条ただし書の規定による2以上の発明を包含する特許出願については、その1つの発明に拒絶の理由があれば出願全部が拒絶されると解されるのであつて、この点についての本件審決の認定判断に誤りはない。
第四証拠関係
本件記録中の書証目録記載のとおりであるから、これを引用する。
理由
(当事者間に争いのない事実)
一 本件に関する特許庁における手続の経緯、本願発明の趣旨及び本件審決理由の要点が原告主張のとおりであることは、当事者間に争いのないところである。
(本件審決を取り消すべき事由の有無について)
二 本件審決の認定判断は正当であつて、原告の主張は、以下に説示するとおり理由がないものというべきである。
1 本願第1発明の進歩性についての認定判断は誤りであるとする主張について
本願第1発明の要旨に成立に争いのない甲第8号証の1ないし4によれば、本願第1発明は、重ねられた少なくとも2葉のうち、その対向する面の一方は求電子受容体塗膜を有し、他方は該求電子受容体塗膜と呈色反応をする求核塗膜を有する化学的複写セツト、すなわち感圧複写紙の該受容体表面上に、呈色反応が起こらないように求核塗膜を湿式オフセツト印刷によつて印刷する減感インキについての発明であつて、従来の減感インキは、それ自身の性質上あまりに親水性であるという事実から、湿式オフセツト印刷には使えないものであつたところ、本願第1発明は、感圧複写紙の求核電子受容体表面への湿式オフセツト印刷用減感インキを提供することを目的として、本願第1発明の要旨(特許請求の範囲(1)の記載と同じ。)のとおりの構成を採用したもので、右構成を採用することにより、所期の効果を奏し得たものと認められる。他方、第3引用例及び第4引用例が本願発明の特許出願前に我が国において頒布された刊行物であることは、原告の明らかに争わず、第3引用例及び第4引用例に本件審決認定のとおりの記載事項の存することは原告の認めるところである。そして、第3引用例の右記載事項に成立に争いのない甲第4号証(第3引用例)を総合すれば、第3引用例は、感圧複写紙用減感剤に関する発明であり、同発明は、従来の減感剤のなかで、アミン、ジアミン、ポリアミンのエチレンオキサイド附加物は最も減感効果がよいが、分子中に多くの親水基をもつためインキ化の際に親水性のビヒクルしか使用できずオフセツト印刷には不敵であるばかりでなく、電子受容面に被覆したのち、高温多湿の環境に置かれると減感剤による吸湿現象が顕著となり、発色不要部分に被覆された減感剤が隣接する発色必要部分にまで移行してその部分の発色性能を低下させ、また、吸湿により裏面あるいは近接する紙葉面のカプセルが異常に高湿度化にさらされ、カプセルの自然破壊が生じやすい等の欠陥があつたところから、この欠陥を解消した減感剤を提供することを目的としたものであるところ、この目的を達するためには、感圧複写紙用の求核性減感インキ剤として、アミンにグリシジルエーテルを付加させた化合物であつて、プトキシル基をもつものが用いられるべきこと、及び右の減感インキ剤は疎水性が大で油性ビヒクルとよく相溶してオフセツト印刷用のインキ化が可能であることの記載があることを認めることができる。また、前示第4引用例の記載事項に成立に争いのない甲第5号証(第4引用例)を総合すれば、第4引用例は感圧複写紙用減感剤に関する発明であつて、従来の減感剤はエチレンオキサイド、プロピレンオキサイドの付加によつて減感能力は改良されたものの反面親水性が増大し、特にエチレンオキサイドを付加した場合にはその傾向が著しく、インキ化の際油性ビヒクルとの相溶性が低下するのみならず、インキ中に加える酸化チタンなどの顔料などの分散性も低下するため活版、オフセツトなどの各種印刷に適した減感剤インキが得られない等の欠点があつたところ、同発明は、この欠点を克服した優れた特色を有する感圧複写紙用減感剤を得ることを目的としたもので、この目的を達するためには、感圧複写紙用の求核減感インキ剤として、付加連鎖末端にアルコキシル基をもつ化合物が用いられるべきこと、及び一般に減感インキ剤の親水性が増加するとインキ化の際に油性ビヒクルとの相溶性が低下してオフセツト印刷に適さなくなるところ、インキ剤をエーテル化してアルコキシル基を形成することにより疎水性が上がり油性ビヒクルとの相溶性がよくなり、オフセツト印刷に適したインキ化が得られることの記載があることを認めることができる。ところで、原告は、本件審決が、第3引用例及び第4引用例の記載から、第3引用例及び第4引用例にいう「オフセツト印刷」とは、ごく普通の湿式オフセツト印刷を指すものであり、アルコキシル化された求核化合物は疎水性が高いので湿式オフセツト印刷に適した油性インキとすることができることは、本願発明の特許出願前知られたことである旨認定判断した点を争うので検討するに、成立に争いのない乙第1号証の1ないし3(大蔵省印刷局昭和50年9月1日第2刷発行の日本印刷学会編「新版印刷辞典」第53頁ないし第55頁、第112頁、第273頁及び第354頁)によれば、「オフセツト印刷」の用語は通常平版印刷を意味するものであつて、平版印刷は、水と脂肪とが互いに反発する性質を利用し、非画線部を親水性に、画線部を親油性にし、版面に湿し水すなわち水とインキとを交互に与えて印刷するものであるところ、これに用いる通常オフセツトインキと呼ばれる平版インキには、湿し水に対する特別な性質が要求され、湿し水とあまり乳化しないことなどが必要であることが、本願第1発明の特許出願前技術常識として知られていたことを認めることができ、以上の事実に前認定の第3引用例及び第4引用例記載の事項及び前掲甲第4号証及び第5号証から認められる第3引用例及び第4引用例には、「オフセツト印刷」との用語を湿式オフセツト印刷以外の印刷方法を意味する用語として用いていることを窺わせる記載がないことを総合すると、第3引用例及び第4引用例に「オフセツト印刷」とは、湿式オフセツト印刷を指すものであり、右各引用例にはアルコキシル化された求核化合物は疎水性が高いので湿式オフセツト印刷に適した油性インキとすることができるということが開示されているものと認められる。原告は、オフセツト印刷という用語は、基本的な技術的思想の異なる方式であるドライオフセツト、湿式オフセツト及びグラビアオフセツトを包括する用語であつて、第3引用例及び第4引用例にいう「オフセツト印刷」がそのうちのいずれを意味するのか明確でない旨主張するが、上掲各証拠に照らし、原告の右主張は採用することができない。また、原告は、本願発明の特許出願当時においては、湿式オフセツト印刷に適した減感インキは存在せず、減感インキは湿式オフセツト印刷では印刷できないということが技術常識である旨主張し、この点に関し、第4引用例の第2頁右上欄第22行ないし同頁左下欄第13行に、例えば、特公昭46-29546号、特公昭49-23850号、特公昭49-23118号に記載された減感インキは、いずれもオフセツトなどの各種印刷に適したものでないことが述べられている点を指摘し、また、甲第6号証の1及び2、第7号証並びに第13号証を挙示するが、前掲甲第5号証によれば、第4引用例中の原告指摘箇所及びそこに列挙された公報に記載された減感インキは、第4引用例記載の発明が解決の対象とした従来技術として述べられたものであることが明らかであるから、右の記載は原告主張の事実を証し得る記載とは認め難いし、その余の原告挙示の証拠も、第3引用例及び第4引用例の前認定の記載内容に照らし、これを覆し、原告主張の事実を認めしめるに足りない。更に、原告は、第3引用例には分子全体の脂肪族部分の数箇所にブトキシル基が添加した置換のジアミン化合物が示されているが、これらのアミン化合物は水溶性であり、また、第4引用例には、エチレンオキサイド又はプロピレンオキサイドとアンモニアやアミンのような窒素を含む化合物との反応生成物である減感剤が示されているところ、分子のヒドロキシル基のある部分は、例えばアルキレンオキサイドのようなオキシレン誘導体により更にエーテル化又はエステル化されており、これらの化合物も水溶性であり、いずれの化合物も湿式オフセツト印刷には使用不能である旨主張するところ、前掲甲第4号証によると、第3引用例の実施例5には、原告指摘のとおり、分子全体の数箇所(4箇所)の脂肪族部分にブトキシル基が付加したジアミン化合物が示されていることが認められるが、前認定のとおり、第3引用例には、インキ剤をエーテル化してアルコキシル基を形成することにより疎水性が上がり油性ビヒクルとの相溶性がよくなり、オフセツト印刷に適したインキ化が得られる旨の記載があり、その実施例として右実施例が示されており、しかも、右のアミン化合物が水溶性であることを裏付ける証拠は何もないから、原告の右主張は、採用することができず、また、前掲甲第5号証によれば、第4引用例には、「エチレンオキサイド及び/またはプロピレンオキサイドを付加されたアンモニアあるいはアミン化合物はさらにその付加連鎖末端の水酸基をオキシラン誘導体、……によつて少なくとも25%以上エーテル化ないしはエステル化される。エーテル化ないしはエステル化が25%未満の場合には、得られる反応生成物は油性ビヒクルと充分に相溶せず、安定化の劣つた減感インキしか得られない。また、吸湿によるマイグレーシヨンも起り易くなるので25%以上、好ましくは50%以上エーテル化ないしはエステル化する必要がある。」(第4頁左下欄第11行ないし同頁右下欄第3行)旨の記載があり、付加連鎖末端の水酸基をエーテル化するためのオキシラン誘導体としてグリシジルエーテル一般式file_2.jpgCH,—CH—CH,—O—R No(Rは炭素数3以上のアルキル、アルケニル又はアリール基を示す。)で示される化合物が挙げられていることが認められるところ、これはアルコキシル基(―O―R)を含み、このRが疎水性の付与に関与し、これがアルキル基であるとき炭素数が3以上で変化するというのであるから、この数の増加に伴い親油性(疎水性)の程度が増加することは明らかであつて、右化合物が水溶性であるとはいい得ず、しかも、第4引用例記載の前記化合物が湿式オフセツト印刷を可能にしてることは前認定のとおりであるから、原告の右主張も採用することができない。
そうすると、本願第1発明と第3引用例及び第4引用例記載のものとは、前者がインキの親水性と親油性のバランスをHLB2ないし9の間に調節するものであるのに対し、後者にはこの点の記載がなく、この点で、両者は相違するが、その余の点においては共通するものというべきである。
次に、原告は、本件審決が、右相違点につき、「HLB2ないし9の値は湿式オフセツト印刷用インキとして普通のものであり、適宜決定し得るものである」旨認定判断した点を争うので検討するに、前認定説示したところによると、第3引用例及び第4引用例には、アルコキシル化された化合物、すなわち、「アミンにグリシジルエーテルを付加させた化合物であつてブトキシル基をもつもの」及び「付加連鎖末端にアルコキシル基をもつ化合物」が記載されており、右化合物はいずれも親水性基と親油性基とをもつ化合物であり、しかも、これらはそのインキ化に際しては油性ビヒクルに対する相溶性に関する配慮に加え、それを通常のオフセツト印刷、すなわち湿式のオフセツト印刷で印刷する際の水に対する配慮をもなされているものと認められ、これはすなわち、それら化合物の油性ビヒクルと水に対する一種の界面活性作用を利用しているものであることは明らかである。ところで、成立に争いのない乙第4号証の1ないし3によれば、その「親水性親油性バランス」の項には、「表面活性剤の示す乳化、分散……などの種々の作用は、いずれも2相の界面においてこれらの物質がもつ親水基と親油基がそれぞれの相に対して示す親水性、親油性のバランスによつて決まると考えられるが、その要求されるバランスの度合は上記諸現象でそれぞれ異なり、その最適条件は各表面活性剤に与えられた1つの数字を、現象の要求する定まつた数の領域と一致させることで実現できると考える。このような考えに従つて、表面活性剤分子の親水基と親油基のバランスから決められた数字をHLBといい、このような計算から目的に適した表面活性剤及びその組成を決めるしくみをHLBシステムという。……HLBは主として非イオン活性剤に適用され、油の乳化実験から経験的に1~40までの数値が与えられている。数が小さいほど親油性が強く、大きいほど親水性が強いことを示している。……実用上のHLBとしてはW/O型乳化の場合は3.5~6……が最適であるとされている。」との記載のあることが認められ、右記載によれば、HLBは、界面活性剤、すなわち親水基と親油基とを有し界面活性作用(乳化、分散等)を有する物質を使用する場合の目安として本願発明の優先日前から用いられている化学常識に属するものということができる。そうすると、第3引用例及び第4引用例記載の前示化合物は、前述のとおり油性ビヒクル及び水に対する一種の界面活性作用を利用するものであるから、HLBが界面活性作用を有する物質を利用する場合の目安として既に使用されていたとの前示の事実を考慮すると、両引用例に記載のそれら化合物について、これを本願第1発明のように利用するようにする点に当業者としてさしたる困難性はないものというべきである。加うるに、本願第1発明は、減感インキを含むアルコキシル化された求核化合物につき「アルコキシル化の程度が、HLBスケールで2ないし9の値の間でインキに親水性・親油性のバランスを与える」というものであつて、その値はかなり低い値であるところ、両引用例における前記化合物でも、前叙のとおりそのインキ化後の印刷時における水に対する配慮、すなわちいわゆる湿式のオフセツト印刷等への配慮を含め、そのインキ化に際しての油性ビヒクルへの相溶性、すなわち疎水性に関して十分配慮されたものであるから、それをHLBで表せばかなり低い値となることは十分予想し得ることであり、しかも、このHLB値を2ないし9という範囲に限定したことの技術的意義は本願発明の明細書(前掲甲第8号証の1ないし4)によるも必ずしも明らかであるとはいえないから、そのような限定を加えることは、第3引用例及び第4引用例記載の化合物についてHLBを利用するに際し、当業者であれば適宜決定し得ることというべきである。原告は、本願第1発明の特徴は、アルコキシル化合物そのものではなく、アルコキシル化の程度を調節することにより減感インキに所定のHLB値をもたせ、湿式オフセツトによる印刷を可能にしたことにあるところ、引用例のどこをみても、HLBのバランス、ましてやアルコキシル化の程度によるHLBバランスの調節については何らの指摘ないし考慮がなされていない旨、また、HLB値を2から9に限定することが湿式オフセツト印刷のために必要である旨の記載ないしは示唆はない旨主張するが、前認定説示のとおり、第3引用例及び第4引用例記載の化合物はいずれもアルコキシル基を有するもので、それによつてその化合物に疎水性を与えており、それが疎水性の付与に関与し、炭素数いかんによりその疎水性の程度を変化させるものであることは明らかであつて、これはすなわちHLBでいえばそのアルコキシル化の程度によりその値が変化することにほかならない。そして両引用例においては、前認定のとおり、そこに記載のアルコキシル基をもつ化合物について、これをインキ化する際の油性ビヒクルへの相溶性に関する配慮だけでなく、それを含むインキをいわゆる湿式のオフセツト印刷で印刷する場合の配慮をもしているものであり、しかもその目安としてHLBを用いること、及び本願第1発明で設定しているその値自体に格別な点がないこと前認定説示のとおりであるから、原告の右主張はいずれも採用することはできない。
そうだとすれば、本願第1発明は、第3引用例及び第4引用例の記載事項から当業者が容易に発明をすることができたものと認められるのであつて、本件審決には、原告主張の本願第1発明の進歩性についての判断を誤つた違法の点はない。
2 判断遺脱の主張について
特許法第38条ただし書は、特許出願は発明ごとにしなければならない旨規定する同条本文の例外として、2以上の発明であつても、特許請求の範囲に記載される一の発明(特定発明)に対し、同条各号に掲げる関係を有する発明については、特定発明と同一の願書で特許出願をすることができる旨規定しているところ、右規定は、2以上の発明について願書を同一にする複数の特許出願をすることができる旨定めたものではなく、手続上の便宜から2以上の発明について願書を同一にする1個の特許出願をすることができる旨定めたものと解するのが相当である。そうであるとすれば、特許法第38条ただし書の規定に基づく特許出願は、1つの発明について拒絶理由があるときには、その余の発明について拒絶理由があるか否かにかかわらず、同法第49条の規定により拒絶すべきものというべきであり、本件審決は、右と同旨の判断をしたものと解されるから、その判断は相当であつて、本件審決に原告主張のような違法の点はないものといわざるを得ない。
(結語)
三 以上のとおりであるから、その主張の点に判断を誤つた違法のあることを理由に本件審決の取消しを求める原告の本訴請求は、理由がないものというほかはない。よつて、これを棄却することとし、訴訟費用の負担について行政事件訴訟法第7条及び民事訴訟法第89条、上告のための附加期間の付与について同法第158条第2項の規定を適用して、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 武居二郎 裁判官 川島貴志郎 裁判官 小野洋一)